へば、飛ぶべ!

 曇り空の寒い一日。一匹の虫が飛んでいます。一斉に鳴きだす夏のセミのようにどこかでスイッチが入ったのでしょう。人間として昨日と今日の違いが判りませんが、飛んでいる虫はそこがわかった。いつもの休憩場所で、いつもの鳩に会いますが、どことなく鳩の体もひとつ肉がついてきた感があります。

 

 こういう季節の流れを、身のまわりの自然が教えてくれるのはこの国ならではのことです。僕が住んでいたブラジル、セアラー州では、赤道に近かったこともあり、一年中、夏。常に熱いところです。季節があるとすれば、雨季と乾季くらいで、虫などはいつもまわりにたくさんいます。フルーツもほぼ一年中採れ、人は収穫のための努力などはほとんどせず、ボーっと実がなるのを待つだけ。服装もほぼ同じ格好です。季節を感じるのは、祭りや宗教行事のおかげで。

 

 生活スタイルが変わり、都会では密閉された部屋の中、空気を管理し体調を整えて、毎日同じ道を通い暮らしています。花が咲いたり、虫が鳴いたりして、「もう春なんだな」と心の中でつぶやき、ふと立ち止まる。自然が一声かけてくれなくては、時の変化に気づかない。

 

 海に暮らす人たちは、水揚げされる近海の魚から季節を教えられ、いっぽう、里山のある田舎では、人は自然を見て暮らし、木を見て、森を見て、空を見て、風を感じて。とりわけ冬は収穫が少なく、本格的な冬が来る前に、いろいろな準備に追われる。それでも春を待つ間、山々の木々を見ながら、そこまで来ている春を感じ、徐々に冬の体制を解いていく。やがて来る次の季節を心待ちにしています。

 

 一年中同じセアラーでは、人々が日々、見ているのは木になっている果物までで、その先の森や風などは、それほど一生懸命に見てはいません。ところが、天気予報となると百発百中で、よく晴れた快晴の日にも、ビュッと吹いたひとつの風から、「大雨になるぞ」と、だれもが知っています。典型的な高気圧地帯で、突風や強風は毎度のことで、僕にはみな同じ風にしか見えませんが…。突然強い風が吹き出して、パタッと止む。やがてアマゾンで生まれた雲が広がっていき、雷を引き連れて、バケツをひっくり返したようなスコールになる。

 

 このエリアの水道水は「ワールド・スタンダード」なので飲むことはできませんが、このアマゾンの雨だけは別です、別格です。この雨水で入れるコーヒーうまし!(ブラジル人にそういう感覚はありませんが)この雨で炊くコメも、これまたうまし!

 

 日本の田舎も、ブラジル、セアラーも、それなりに人々はしっかりと自然と共存しているんですね。問題なのは、都会の人です。暑かったら汗をかけばいい。雨が降ったら濡れればいい。このことを当たり前のごときにあつかうべきで、まるで汗や雨が悪者のようにとらえて生きていくのは、どこか不自然な無理があります。結果、人々は、閉鎖的になり、排他的になり、人の目を気にしながら、みんなと同じならば大丈夫、という保険に入ってから、浅はかな評論家になる。自転車、老人、タバコ…。そこに正義はなく、自分がどういう気持ちなのかすらわからなくなって、心を閉ざす。

 

 昭和までは、それでも日本は江戸時代からの流れの中で文明と接してきたけれど、どこかで突然、オセロをひっくり返すようにおかしなスイッチが入りました。

 

 

         困っていたら助け

        手を抜いていたら怒れ

 

 

 世界史の中でもおそらくはトップクラスの人口を抱え、それでも完璧といえる衛生環境を構築し、水を制し大きな疫病で民を失うことなく、何百年も続く文化を花咲かせた江戸時代。人は、自分に責任を持ち、家族を思いやり、困った時には相談をして、または困っている人を助け、子を産み、育て、私利私欲に走らず、お前さんの役に立つんなら!と、一肌脱ぎ。

 

「おいらがやろう」

「人様のお役に立つんなら」

「これの目の黒いうちは」

「お前さん、いっといで!」

「あいよ、がってんだ!」

 

 こんな風に言葉を交わしながら、時代を謳歌していたのだと想うと、とても楽しい気分になります。冬空に虫を見つけて「あっ!」なんて思っていては、到底彼らの足元にも及びません。江戸時代よりはるか前から続く同じ空の下、朝を済まし、くわえ楊枝で縁側へ。ちょいと一服。昨日と何ら変わらない空を眺め、

 

「おう、明日あたり虫が飛ぶぜ」

「何、寝言を言ってんだい、とっとと仕事お行き!」

「へいへい、………… 春だねぇ~」

 

 なんて、言ってみたいものです。