野生は、迷わない!

 僕は、猫よりも犬のほうが好きでした。猫はすべてが嫌いで、犬は常に「飼いたい」という願望があり、共に暮らしたことが十数年ほどあります。ブラジルの田舎町に住んで、変わったことはたくさんありますが、そのひとつが、犬より猫が好きになりました。

 「猫のほうが、プライドがある」

 犬、猫、ヤギ、ロバ、馬、牛、そして空にはコンドルなどなど。これらすべての生き物たちが、人間の暮らしと隣り合わせて存在しています。犬と猫ですが、人に飼われていない野良犬は、徒党を組み集団で行動し、その中に力関係があり、発情期以外はそれなりにチームのルールに従い、食べ物を探し街を徘徊。とはいえ、主な活動内容は、やはり人間に媚を売りながら、おこぼれを頂戴する、という手法です。そこへいくと猫は、人にもあまりなつかず、窓辺に座っているとき以外は、家主様の飼っている鳥に飛びついたり、ほぼ、野生の生き物です。体調を崩し、人家はなれた藪の中で、何も食べずに、じっと息をひそめ、回復を待っているとき、もし、目の前を鼠が通ろうものならば、彼(彼女)は迷わず全力で襲いかかる。それだけの体力が回復しているのか?など考えることもなく、飛びかかる!

 

昭和の東京にも、こんな時間があったことを思い出しました。

協力する気はあるが、言いなりにはならない。

 

 人の前を通るとき、多くの野良犬は、人間の顔色を伺いながら通り過ぎていくけれど、猫はまったく無視、無関心。食事も、今ある分はぜんぶ平らげようと、飲み込むように食べる犬と違い、ちょっとでも気にくわないことがあると、食べるのをやめてしまう猫。野生に肥満はなく、同じ種類の生き物は大体同じ体形をしています。そういう意味では、人に飼われていない生き物のほうが、シャープな体つきをしていて、キレもよさそうです。

 

 東京に限ったことではありませんが、街を歩いていると、夜の散歩に飼い主と同じおそろいのライトを首につけた犬、抱っこされている犬、乳母車に乗った犬!

(犬に服なんか着せて!)という頃よりも、時代は、はるかに進んでいるようです。人は、犬としてのプライドの中まで、入り込んではいけません。産業としてのペットは許可せず、販売ではなく原則譲渡のみ。車に車庫証明があるように、ペットにもその種類ごとに「必要な最低限の居住環境が必要」証明のようなものがあっていいとおもいます。必然的にペットショップはなくなり、都会では飼いづらくなります。日課としての散歩から主治医の動物病院の先生まで、のペットの人生を、本来の姿に戻していくべきです。ブラジルの犬のほうが幸せに思えます。

 

 生き物を目の前にし、人間から教えることに比べ、その背景にある野生から人間が学ぶべきものはより多く、辛く厳しい状況でも、確固たる信念を持って、その先にある自然と対峙する。大きな脳を持ってしまったがゆえに、無駄な暴走を繰り返す中、本能と五感で共存していく道を、迷うことなく、常に外れない生き方を、猫を通して教わりました。