トンボの目

  僕の朝は、基本、コーヒーを入れることから始まる。なべで入れて布で濾す。砂糖を多めに入れ、ゆっくりと、がぶがぶと飲む。そのブラジルで買ってきたコーヒーが終わる。すでに終わった砂糖と共に、自分の読みの甘さに反省する。「もっと買ってくればよかった」代わりに、なかなか減らないものもある。パン粉。あまり日本では出回っていない、きめの細かいパン粉。いずれも、ネットで探せば簡単に同じようなものは手にはいるのだけれど、そこはやっぱり「現地品」。やや、在庫過多のこのパン粉も、たとえ、間に欧米の穀物メジャーがかかわっていようとも、己の胃袋ひとつで立ち向かいたい。資本主義的金融工学の中に埋もれてしまっているとはいえ、空の下で育った小麦に罪はないのだから。自然からもらうものには、感謝して、無駄なく扱う。ヤボに聞こえるだろうけれど、それが僕の流儀だ。

 

 区役所に行き、肝心の保険証を忘れ、家に戻りもう一度いけば印鑑を忘れている。四谷のナチュラルフードを扱う店で買い物、家に寄ってから、地元のスーパーへ行けば、財布を忘れる。

「救いようのないやつだ」

と、私、

「今日は、調子が悪いってことで!」

と、レジのお姉さん。

 

 二度手間、三度手間も「時間の無駄」とは思わない。早いほうがいい、安いほうがいい、よりも、時間とお金に、質と自由。責任逃れをせず、犯人探しをせず、本質の世界でつながっていたい。忘れたらとりにいけばいい。雨が降ったら濡れればいい。

 

 都内を自転車で動いていると、「ややっ?」と思うことがあります。天気は曇り、雨は降っていないのに、川の水がずいぶん増えている。上流は雨?しかし、別の川では水位はいつもどうりのチョロチョロ。

 台風や大雨、異常気象というけれど、本当にそうなんだろうか?雨や風、四季の空は昔とそんなに変わらずに流れているのでは?地面をコンクリートで固めてしまって、水はどこへ行くんだろう?空に突き刺さるような高い建物をどんどん作って、隙間なく室外機で地表の温度を上げて、平野に流れていた風は、どこへ行くんだろう?日本人は、四季と、自然と、水と、風と、土と太陽を本当に上手に使って、今まで来たのに、どうして、気候を、自然との付き合い方を、失ってしまったんだろう?

 

「命を守る行動を」と盛んにいうけれど、濡れてしまうだけですんでいたのに、家まで流されてしまうようになったのは、すべてを失うようになってしまったのは・・・?

 

 

親たちが飛んでいた空から、同じ陽を背にうけ、違う街を見ている。

 

みんな、もうわかっている。