リオの青空

 リオデジャネイロの西区、海岸からアイルトン・セナ通りを上がっていくとANIL(アニウ)という街があります。東は映画で有名な「神の街」Cidade de Deus。西はガーベアの山々に囲まれ、スラム街~中流~富裕層それぞれが暮らす緑豊かな街。

 

 リオの中心市街や南地区は、今では地下鉄も整備されて移動手段に不自由しませんが、アニウはオリンピックで街に向かう電車ができたとはいえ、バスと車が主な足です。30年のブランクがある僕には、懐かしいリオの空気。

 

 気持ちがいいので夜は庭で寝ていると、垣根でガサゴソと音がします。このあたりで「ガンバ」と呼ばれている大ねずみ。暗くて姿は見えませんが、体が大きいので普通のねずみのようにチョロチョロとはいかず、のそのそ動く赤い目がこっちを見ています。道を歩いていると、木々の中、手のひらに乗るような小さなサルや、空には、たぶん目の前に下りてきたら相当大きいのであろうコンドル、その間を見たこともない鳥が飛んでいます。

 

「垣根になにかいる。あれなに?」

「ガンバ」

 

「がんば?」

「ねずみ」

 

「ねこじゃないの?」

「大きいねずみ」

 

「噛む?」

「知らない」

 

 そんな暮らしも、だんだん慣れてきて、依然姿の見えないガンバと、毎晩アイコンタクトのみの日々が続きました。ガンバ同様、人間たちも暗くなってくると、のそのそ街の盛り場に集まってきます。先日、当時住んでいたレブロンやそのとなりの、友人が暮らすイパネマで過ごしたとき「なんだか寂しくなったな」と感じたときとは違い、このあたりの夜はにぎやかです。若者からお年寄りまで、どこのお店も大繁盛。どこからこんなパワーが出てくるのか?

 

 レストランの中や路上、街のいたるところで生演奏をしている人がいて、店の店員も大忙し。料理の値段はそれほど安いわけではないのに、好きな飲み物と一緒にチキンやピザがテーブルに並んでいる。活気にあふれ街は笑い声に満ちている。

 

 (今の暮らしの現状は?)と聞けば、給料が入ってこない、車を盗まれた、親が入院した、友人が死んだ、兄が失業した、離婚した、強盗にあった、フラメンゴが負けた…。活字にするとなんだか物騒で、似たような部分もあるものの、やっぱり日本のほうがいい。

 

 それでも、どっち?と聞かれれば、迷わずRIO!未払いやアクシデントは常にあるもので、今、テーブルの上にあるチキン、それとこれとは話が別。人生の軸足はチキンにあって、給料や強盗は蚊帳の外。もちろん、酒が進めば仕事や家庭、好きな奴、嫌いな奴、政治や経済の話は、これはもう万国共通で、怒りや悲しみの時間。ところが、これが車やサッカーの話になってくると、ややトーンが変わってきて、男と女の話となればもう完全にヒートアップ。ケタケタ笑いの時間になるわけです。

 

 ケタケタ笑いは、やがて隣のテーブルにうつり、さらにそのとなりへ。人間個々の間にはきっちりとした境界線があって、周りがどんな話でも「あたしは今そういう気分じゃないの!」これもあり。他人に合わせる必要はなく、まわりも「ヤツはその気じゃないようだ」と、これを容認。自分は主張するし、相手は尊重する。年齢は関係なく、男女も関係ない。親がそうだから子もそうなり、孫もそう、死んだじいちゃんもそう。

 

 だから、議論で反対意見の言い合いになっても、終われば元どおり。外側と自分との境はあるものの、他人を受け入れるスペースもある。見ず知らずの人も受け入れる心構えがある。人生の軸足は、家族や食事の時間にあり、仕事や人間関係はおかず。食事しているときに明日の仕事のことは考えない。

 

 

    わがままや理不尽に付き合うな

    いなくてもいい連中だ

 

 

 逆に、仕事が終わって街に出たとき、レストランに入ったとき、休日に公園で散歩しているとき、仕事のことは考えずにいたい。なかなか難しいけれど、どこまで心をそこにおけるかは大事。また、それができないような仕事であるならば、早めに辞めてしまおう。これは「逃げ」ではなく正しい「選択」。そんなところにいつまでもいったってしょうがない。

 

 朝のコーヒーを庭でのむ。パンにバターをつけて、マンゴのジャムと。ついでにサラミもかじる。あまりに天気がいいので、ついつい「プシュッ」とビールをあけてしまう。ガーベアの丘の上から滝が勢いよく流れている。早起きなのはぼくとドナだけ。ほかの連中はまだ寝ている。暗くならないとガンバもいない。

 

 ブラジルの人たちは、先代、先々代よりその暮らしの文化が引き継がれているので、ちょっとやそっとでは真似できない。30年前も、今も、周りは先生だらけだ。

 

 この地のガンバは知る由もないが、海の向こうの東の国では、今年はねずみ年。君の年だ。