フグとカレーと…、
Youtubeに動画があります。アップしたのは10年以上前ですが、再生回数は、なんと100回程度。おそらく、世界で最も再生されていない動画です。しかも、その100回程度の再生回数のほとんどは、ぼくです。つまり「誰も見ていない動画」です。
「とにかく、うちにやつのカレーはまずい」という知人がいます。奥さん本人も「私が作るカレーまずいんです」いくらやっても、まずカレーしか作れないと。逆に、ことあるごとに、奥さんの手料理を自慢する人や、「あの店のあれはうまい」という人の話は、ちゃんと聞いているのは最初の一回だけで、だんだんと「また、はじまった」という類の話になっていきます。
うまいうまい、といわれると、聞かされている方は冷めてきてしまいますが、まずいカレーの奥さんが作るカレー、本当にそんなにまずいのか?一体、どうやったらカレーをまずく作れるんだろう?だんだん、一度食べてみたくなります。
母ちゃんが買い物に行くときの「いいかい、タンスの中のものは絶対にいじっちゃダメだからね!」この心境です。
例えば、フグの毒。有史以来、何人もの人たちが犠牲になっていることと思いますが、ここへ来るまでの、過程はそれほど悲しいものではない気がします。
若旦那衆が今夜も一杯やっています。
「だんな、こんやはこれ、もってきやしたぜ!」
「おお、ふぐじゃないか!」
「そういやぁ、先日、横町の彦さんは、これ食った後に逝っちまったんでさあ」
「なあに、かまうことはねぇ、やろうぜ」
「彦さんは、三口目くらいのときに(こりゃ、たまんねぇ~)って言ってやした」
「なんなら、その四口目ってのを、今夜やってみようじゃないか」
「おいおい平さん、もう五口目ですぜい。大丈夫ですか?」
「んん、何ともない」
「それじゃ、あたしも一口いただいてみますよ」
「あら、ほんとだ。これはうまい!」
「おっ、松さん。なんだかきたぜ。これが、彦さんの言っていた(たまんねぇ~)か い」
「すげぇや、彦さんは三口目でお釈迦、平さんは六口目まで大丈夫だ」
そして、翌日。バツイチならぬボツイチとなった平さんの女房、お福がささやく。
「お前さん、なんでまたフグなんて食っちまったのさ。まったく!」
そんな具合で、あちこちの街々で「二口目からがようござんすよ」なんて会話が繰り返されて、今日に至る。ちょこっとつまんで、「んん、たまんねぇ~」となって、そこで切り上げる。死にたくはないが、未知の味は経験したい。頃合いを見計らって、危険な香りを楽しむ。この、行ったり来たりの文化の積み重ね。人間という生き物のすばらしさ。
暴れ馬にけられたり、飛んできた桶が頭にぶつかったり、ひょんなことから人は死んでしまう。普通の日常の中に「死」というものはすぐそば、すぐ隣にいて、素知らぬ顔でぴたりと張り付いている。ある時はどこにいるのかわからないくらいに遠のき、ある時は触れるくらい近くに。気配もなくピタッと張り付いてくる。
そこが危険なんじゃない
そこにいることを選んだことが危険なんだ。
メダボ、減塩、インフルエンザ、事故、火災、がん…、恐怖や危険をあおって、世の中を心配の沼に陥れてからの、おいしい商売がはびこっています。本当に危険なんでしょうか?長寿の小太り、島流し後の塩抜き、ワクチンの中身、高額な車、住宅ローン、年に一度の健康診断、その後の再検査、抗がん剤…。
ふぐを目の前にしては直接勝負、1対1の対決。ところが、現代の人々は、真実かも定かではない「見えない恐怖」におびえ、生きる。そこに自分の意思はなく、人のささやきから、見聞きしたことから、下してしまった判断。みんなと一緒だからと、とりあえずは安心し、いつまでも変わらない赤信号を渡っている。
命にかかわるような問題は、あちらこちらにあり、その中に包まれて共存していくしか方法はない。その身近にある危険を察知するべく能力のある、ない、が、生きてく上では問われる。少なくとも、フグを食べていた旦那衆は、そこにいるとこを自分で決めていて、他人の意見には流されずに生きていた。
松に誘われるまで、一緒だった愛しいお福、
目の前の、ふぐ。
良く晴れた日の、江戸から見える富士山、
目の前の、ふぐ。
昼に入ったうどん屋のかわいい娘、
ふぐ。
「なぁ、松…、あれれ、彦さんじゃねぇか、なんでお前さんがここに…?」
ふぐ。
彦さん、平さん、あっしの「ゆーちゅーぶ」、ちょいと見てみないかい?