花は咲いたか?桜はまだか?というより、梅。

  目白通り、日曜日の朝、車やバイク、自転車も人も、やはり空いています。トラックや営業車も少なく、慣れてくると、部屋の中から道路の音で「今日は日曜日」と、わかります。

 

 店舗形態が変わっていき、大型店がだいぶ増えました。全国展開していることころや、地域で広がっていくところ。シャッター街を産んだり、または雇用を作ったりと、一長一短。

 

 中央線沿線の街には、独特の色があって、ぼくの育った西武線界隈とは違った発展をしています。大型店舗が駅中やその周辺に続々と出店し、もはや駅ごとに店舗がある時代です。ここまでは、西武線も中央線も同じなのですが、個人経営の八百屋さん、タバコ屋さん、そして、銭湯。西武線ではほぼ見かけなくなってしまった、昭和スタイルのお店が、中央線界隈には今も残っていて、さらには、金物屋、古本屋、レストラン、洋服屋(ブティック)、木造二階建てのアパート、この辺りも、まだまだ健在です。

 

 戦前は、荻窪あたりは別荘地だったと聞きました。それ故に文化人たちも多かったとか。なるほど、神社や公園も多く、確かに別荘にはいいところ、もってこいの環境です。

 

 戦後、焼け野原になってしまった東京中心部からの移住者が増えて、どんどん家を建てていった。阿佐ヶ谷あたりでは、地元の人曰く、今はもう「昔はあぜ道だった」ところ以外は全部家になってしまい、細い道が多く、人や車が増え続けて、道路を一方通行にして何とか行き来をやりくりしている。

 

 あるお年寄りは、空襲が激しくなっていき、阿佐ヶ谷から仙台に疎開。すると、その行った先の仙台でも爆撃が始まった。戦争が終わり、やっとの思いで再び阿佐ヶ谷に帰ってくると、自宅は空襲にあわずに残っていた。「一体、何のために仙台へ行ったのか?」と。

 

 ゼロ戦を作っていた中島飛行機界隈では、空襲で焼け野原になってしまい、まずは区画整備から始まったので、この辺は道幅もゆったりとしていて、碁盤の目のように走りやすい道が多い。

 

 そのどちらの街も、大型店が駅ごとにある中、今でも続く個人経営のお店が店先に商品を並べている。これは、お店の努力もさることながら、なんといっても“民の力”が、こういったお店を支えているのは、間違いのないことです。

 

 もう、現役を引退してしまった造園家のお父さん。「あの家はオレが手入れしていたんだぜ」と。確かに、よく造園業者の車が停まり作業をしています。庭の手入れを多ご近所の植木屋さんに頼み、いつもの八百屋さんで野菜を買い、これまた、何件もあるお肉屋さんで肉を買って、ついでにコロッケも。そして、歩くのが億劫だからバスに乗って帰る。

 

 国鉄や地下鉄も通ってはいるものの、このエリアの弱点といわれている、いわゆる“縦のライン”の交通網はバスが主流です。青梅街道には次々とバス停にバスが飛び込んできます。ぼくのような部外者がこの街に来ると、初めはなかなか方向がつかめません。車を運転していても、一方通行が多く、大きな道からちょっとでも中に入ると、矢印のままに周回コースから抜けられなくなります。

 

 電車に乗り密室の中で目的地まで着いてしまうのは、何とも味気ない移動ですが、常に街並みを通りながらの移動には、日々新しい発見があります。新しい店は、広告、ネット、のほかに、目視確認後、口コミで広がることも。

 

 もう少し時代が進み、昔は地主さんの大きな家があったところが更地になって、同じ敷地内にマンションができ、あるいは小さな家が次々とたてられます。ガレージ付きのおしゃれな家々。昔は大地主の大きな敷地、今は、窓を開ければお隣さん。

 

 昔はあそこでザリガニ取りをしたんだ!と、阿佐ヶ谷の旦那さんがいう街はずれには、素敵なマンションが建ち、いまでは、物件探しの人達のあこがれの的です。若い住居者も多いと見えて、夕方近くなると、ネット通販での商品の配送に、各社配達便の車両が何台も留まって、荷物を運んでいます。

 

 全国展開しているような大型店や、チェーン店がひしめく中、同じように、何十年もこの地で生業を立てている地元の事業家たち。企業と個人が見事に融和しているこの街。先代がひいきにしていた店に、二代目、三代目が今も通いつめる。

 

 青梅街道というだけあって、この辺では、春に梅が咲きます。あちらこちらに、赤、白、ピンク、きれいに街を彩る。本来、花見は桜ではなく、梅だったというのもうなずけます。去年の春、庭に見事な梅の木を持つご家族から「梅、とっていっていいよ、持っていきなさい」といわれ、沢山の梅の実をいただきました。

 

 その梅の実は、自家製の梅干に。夏の太陽で3日間干し、ホームセンターで梅干し専用の壺を購入し「次の梅が取れたら食べよう!」と。1年は漬け込むつもりでした。が、残念ながら、あれだけあった梅干しの壺は、すでに底が見えています。1年は熟成させたかったのですが、まぁ、我ながら、いい出来でした。

 

 荻窪を中心に、この街々から、これからも目が離せません。