鹿肉と赤ワインとアントニオ・バンデラス。

 

 北海道からエゾシカの肉が届きました。これを使って明日の休日は鹿肉大会です。今夜はワインを買って帰ろう。

 

 翌朝、車の査定に、買取会社の査定人が来るので、すこしはやい時間から愛車を磨きます。そこへ、宅急便の人が荷物を届けてくれました。ここに、ぼく宛の荷物が届くことなど年に一回あるかないか。ちょうど駐車場で車の前にいたぼくに届いたのは、軽井沢から赤ワイン。金賞をとった赤ワイン。こんな偶然もあるのか!と。

 

 午前中にすべてを終わらせて、その他の休日作業はすべてキャンセル。料理を始めます。きれいに筋を取ったすね肉を、魚焼きグリルでこんがりと焼く。味付けは塩のみ。昆布とかつおだしで作ったきのこの味噌汁、玄米ご飯、有機納豆、大根と人参のきんぴら、それを軽井沢からの赤ワインでいただきます。テレビで、The Legend of Zorroを観ながら。

 

 ぼくは、穏やかな人間です。争いごとや競争、闘いや根性もの、人混みや大勢の宴会…、そういう類のものはすべて苦手です。そんなぼくでも、時として熱くなる時があります。それは、怒りや情熱とは少し違った、血が熱くなるという感覚です。

 

 たとえば、食べている料理と、飲んでいる酒と、その場の環境。映像や音楽、そこにいる人、一羽の鳥、一匹の虫、あるいは、山とか海とか。これらのチューニングがうまくあった時に、体温が上がります。自分の体が違う体になった様な。

 

 何かを選択するとき、どちらがこのときの感覚に近いか?で判断します。型や形式にはこだわらず、この点でのみジャッジします。職場や金銭的なものには効き目はありませんが、人や音楽、場所や食べ物には至って有効です。

 

 恵方巻は、意味も価値もなく、ただただ廃棄食材を増やしている。これは、消費者にも責任があって、日本人らしからぬ食べ物です。その年の恵方に向かって一気に食べる。テキーラならばまだしも、各家庭でこれをやっているところを想像すると、マヌケです。

 

 恵方巻は買わない、という選択もあり、いくら宣伝しても、だれも買わないとなれば、いずれ、消えてしまうものリストに。冬にキュウリがなくなる、いいじゃないですか、もともと夏の食べ物なのだから。

 

 駆除された生き物を、無駄なく食にするというのは、正しいと思います。さして重要でもない食材を、売り上げのために広告を打って、売りさばくことを、食のプロがしてはいけないことです。

 

 スーパーで思うことは、イベント的な販売に無理があり、営業時間中、ずっと店内おすすめ商品の放送が流れ、店によっては同じフレーズが繰り返し流れるお店のテーマソング、野菜や、お魚、お肉に、生活用品…、只今、パンが焼きあがりました、まもなく4時、タイムサービスはじまります…、大型店の販売マニュアルとはいえ、もうすこし、静かに買い物がしたい。

 

 活気のある市場、店員とお客さんとの値段交渉でガヤガヤとうるさいのは大歓迎、ひっきりなしになしに一方的に流れてくる店内放送を聞かされながらの買い物は、電車通勤中の乗り換え時間のようで、何か味気ないものです。

 

 味噌汁に使った昆布とかつおぶしを、きんぴらの中にジョインさせ、せっかく長野から塩尻のワインが届いたので、醤油はもちろん我が家の定番、ツルヤで販売している小諸の「生じょうゆ」。

 

 初めての鹿すね肉。きっと硬いだろう思い、圧力鍋の調理も考えましたが、まず、ここは素焼きでいってみました。ゲラントの塩をかけ、魚焼き用のグリルで焼き色がつく程度に。これが正解。柔らかく上品な味です。赤身のきれいな鹿肉、噛むほどに出てくる優しい味わい、これからハマりそうです。

 

 黒装束のZorroが黒い馬にまたがって、列車に飛び乗り大活躍。どことなく有名なあのお酒によく似たワインボトルが殺人爆弾で、悪党の頭をぶっ飛ばしたり、胸に下げた十字架に銃弾が当たって命拾いした神父さんが助太刀したり…、と、何か掟破り的なスカッとする映画。途中で流れるジャパネットのCMもすんなりと通過。やはり、なんといっても、ぼくにとって、いい映画の必須条件は、後味のいい娯楽。これにつきます。

 

 畜産の肉に慣れた舌。野生の味が目を覚ましてくれます。本来、人間はこういうものを食べていかなくてはならないのだと。鹿のうまみで満たされた香りを、赤ワインが流して、

 

 だんだん、血温が、上がってきました。