街。

街、

 

 様々な思考を凝らした素敵なデザインのマイホーム。みな、それぞれに夢を叶え、今では、大衆車となってしまったが、これまたきれいな外国の車が並んでいる。朝から街のセントラルパークでは、品評会さながらに自慢の犬たちが一緒に散歩。何千万円の家、それよりはまだましな数百万円の車、そして、それ相応の犬。一見、いい暮らしをしているように見える人たちは、通勤電車に乗り、猛スピードでママチャリを漕ぎながら、この先、何十年という縛られた人生の真っ只中。この世代の人たちは、空調管理された部屋、映りのいいテレビ、色白の子供たちには、もしものときのため用の薬箱。埃をかぶった健康器具。隣りの芝を見ながら「御自分様主義」に磨きをかける。人も、自転車も、車も、道をゆずらず、間に犬がいなければ、ろくに挨拶もせず。まずは陣地とりからの祭りで徒党を組み、掃除は地域活動のとき意外は、やるとしても自分の家の前だけ。近くのベランダからのタバコの煙にキレる。

 

 これだけの投資ができるなら、都会を離れ、もっと広々と、ゆったりとした暮らしは簡単に手に入るはずなのに、そんなに東京がいい?会社、辞められない?窓を開ければお隣さん。敷地いっぱいに家を建てて、どうやって乗り降りしているの?と、首を傾げたくなるようなぎりぎりの幅で収まっている車。何十年後かに完済したとき、果たしてどのくらいの価値がその家に残っている?そして、その頃の東京は?

 

1軒1軒を見れば、パンフレットに出てくるようなきれいな家も、お隣りはイタリア風、そのお隣りはデザイナー風、さらに向かいは和風にスペイン調。ちぐはぐで、なんとも不釣合いなみすぼらしい通り。ぽつんぽつんと道端に出されているゴミのほうが協調性があって、ツギハギだらけの通りに規律を感じさせている。

 

 同じことが軽井沢でも。各々の意思や主張は伝わってくるけれど、すばらしい自然の中で、乱立していくマンション、ミスマッチな建物、苔生(こけむ)す歩道にガラス張りの別荘、都会と同じ看板がひしめく通り。数十年前、街の景観について危機感を感じていた地元の人たちに、建て替えの際は「外見のベースラインは協調性を持っていこう」と動いた人たちがいる。新道から東雲交差点を通り、旧道の入り口まで、今でいう軽井沢本通り。六本辻、鳩山通り。ホテルへと向かう万平通り。人々の気持ちは、大きな意味でひとつになった。しかし、残念ながら、ご自分の夢を実現させたい人たちのほうが多く、相変わらず、後ろにそびえる浅間山以外は、都会と変わらない建物があとを絶たない。このエリアを歩くと、その当時、自らが「自分の主張は懐にしまい、まずは街のために」と、動いた人たちの家々は、見れば一目瞭然だ。せめて通りに面したところだけでもこうだったら。雪模様の浅間山を眺め、クリスマスのイルミネーションで愛を語り、春の日差しに小路から顔を出した芽に喜び、、むせかえるような深緑に思いっきり息を吸い込む。夏がくれば長い夜に身をゆだね、駆け足で走り去ってゆく燃える紅葉に酔う。

 

なんて素敵な街だ。

 

 ブラジル北東部、セアラー州。大西洋には白浜の海岸が続き、国際空港もあるフォルタレーザ。高級ホテルやマンションが立ちび、ブラジルをよく知る旅行者や、ヨーロッパの旅慣れた人たちに人気のリゾート都市だ。しかし、内陸に向かって車で30分も走れば、また違った、本当の意味でのブラジルがある。小さな街々を幹線道路がつなぎ、見渡す限りの原野が広がる。レンガを積み重ねて造られた家は、所得に応じて平屋、二階建て、三階建て、中にはプールつきの家も。どんな家にもハンモックをかけるフックが壁についている。人々は、まずは防犯の設備を整え、好きな色に家を塗り、前の歩道にもタイルを張る。石畳の道の両側に、マッチ箱を並べたように並ぶかわいい家々。赤道に近い真っ青な空によく映える街並みは、まるで絵葉書のようだ。

 

 好き勝手にやっているようでも、この街々が整って見えるのは、ほとんどの家が、みな同じ瓦を使っているのが大きな理由のひとつ。花を飾ったり、木を植えたり。東京と比べ、決してライフラインが整っているとはいえないものの、それでも人たちは、家を、街を、きれいにする。家の前には、タイルやコンクリートで作られた歩道スペースがあり、夕方になると、シャワーを浴びた住人たちが椅子を置いて、一日の反省会。蚊に刺されながらも、思い思いに時を過ごす。「タバコはあっちで吸いなっ!」と。ドナがいえば、若者は道の反対側に。その逆もある。椅子に座っているドナが吸い始めると、煙嫌いな人は、移動。

 

人口も少ないここには、マックもスタバもない。漂うコーヒーの香りで朝が始まり、ガーリックの匂いで昼寝の時間が近づく。週末には庭で肉やウィンナーを焼く炭火の匂い。スピーカから流れる音楽に、「うるさい!」と、クレームをつける人などいない。

 

「また、その歌か、いつになったら上手くなるのっ?」

「今日は、のどの調子がいい。もう1曲いくぜっ!」

「ああ、神様、せっかくの食事がまずくなる」

「セニョーラ、安い塩ばかり使っているからだ」

「マリーア!ビール持ってってあげな、飲んでるときはうたえないんだから!」

 

 歌いだす隣人の声に、いつものご近所付き合いが味をつける。

 

 金曜の夕方は、所得に応じて、自転車からTOYOTAピックアップトラックまでが、スーパーや酒店の前に並び、週末の買い物だ。

 

 誰かの家で子犬が産まれそうになると、希望者たちがやってくる。原則、早い者勝ちだけど、1位指名は大体決まっている。犬の役割は、半分以上が「番犬」。なので、強い犬の子は人気で、生まれる前にすでに完売。街にペットショップはない。飼い主のいない犬は、脱げたり盗まれたりしながら、野良犬となり群れになる。このあたり一帯という世界の中で、世の中の力関係はわかっていて、人間の顔色を伺いながら、日々、食べ物を探し徘徊している。餌をあげる人もなく、野良として生きていけない犬もいる。繁殖期には、あちこちで犬同士の争いごとがあるけれど、それでも街が犬だらけにならないのは、その環境の中で、間に人間が入らなければ、生きていける命の定数は決まっているのだろう。

 

 小さな街では、道行く人は、ほとんど知り合いだったとしても、会えば挨拶、時に、冗談を交わし、常に情報交換。携帯電話を持っていない老人も、具合が悪くなればすぐに隣人が助っ人にくる(悪意の隣人の場合もあるけど!)。しかし、どうしても受け入れられないほど嫌いな人も、一人二人じゃない。そんなときは、万国共通、無視、愛想笑い。その人が通り過ぎれば、もう人生には存在していない。

 

 インフラ、都市機能、財産、所得、ハード面では、あらゆる面で東京は勝っているけど、人生の質のソフト面では勝負にならない。職場、学校、月々の支払い、他人の暮らし、集団的プレッシャーの中、期限に区切られた時間に服従している人生を送り、外向きになれない心。手を伸ばせばなんでも手に入るのに、他人を受け入れられない。狭く小さな許容範囲から、なかなか抜け出せない、東京。物や時間に縛られない、自分たちの人生を送っているブラジルの田舎町とでは、同じスマホをいじりながらの暮らしでも、大きく違っている。

 

 限られた人たちの持ち物だった電話が、ほとんどの世帯に広がり、やがて携帯になり、ネット社会に包まれてスマホになって、それでも人々に暮らしの中に息づいている文化は「昔と変わらないまま」だ。ブラジルの田舎町と東京とは、大きな人生の差がある。共存していくということは、日本人の得意分野。自分たちの人生を削ることなく、最新の技術と共存していく。日本でもこういった街はまだまだ健在しているのだから、何でもかんでも東京に向かうのを、そろそろ考え直し、行動していく時だ。

 

「ジェジェー、この花をドナにあげておくれ」

「あら、マウロおじさん。今日がおばあちゃんの誕生日だって知ってたの?」

「あとで、1曲歌ってやるよ」

「やめといたほうがいいわ。おばあちゃん、おじちゃんの歌、だいっ嫌いだもん」

 

やがて、マウロが歌いだす。また、昼と同じ曲だ。同じ曲ながら、歌詞はオリジナルにアレンジしてある。またはじまった!と、うれしそうな顔でドナが言う。

 

「ジェジェー、マウロを呼んでおいで。ビールがぬるくなっちまう」

 

世の中がどんなに変わろうが、人と人は、まだまだつながっている。