RIOのカーニバル

 1989年

 

 年が明け、世の中もいつもどおりに戻っています。ちょっと、皆さんとは違った18連休という大きな休み明け。前半は人並みに年末年始を過ごし、後半は動ける体に戻すことに専念しました。どこへ行くともなく、役30年ぶりとなる年越しを家人と過ごし、充電完了。

 

 青山学院の駅伝制覇、静岡学園の活躍、台湾総選挙など世の中は動いていますが、僕の中では、ゴーン社長の海外脱出。いつか先輩に言われたのが「ゴーンは一番好きなところは?と聞かれたとき、ブラジルだ」と答えたそうです。そんなブラジルから、季節柄いろいろと友人たちと話しました。現地では、日本ほど年末年始に力を注いではおらず、むしろ、これから来るカーニバルに向け、街がざわついてきます。

 

 1988年12月。ぼくは、旅に出ました。ブラジル、リオデジャネイロ。成田からカナディアン航空に乗り、バンクーバ経由リオデジャネイロへと。荷物がひとつ、なぜかサンパウロに行ってしまい、1週間遅れでガレオンに。今は「アントニオ・カルロス・ジョビン国際空港」と呼ばれていますが、当時はまだ、ガレオンです。

 

 いまだに僕が一番多く聞かれることが「なんで、ブラジルに行ったの?」ですが、今もってよくわかりません。はっきりと明確に答えられる理由のひとつは「(国際線の)飛行機に乗りたかった」からです。以来、’97年までの10年間、行ったり来たりの人生を送りました。

 

 翌、’89年1月、こちらでも、昭和天皇崩御のニュースは大々的に報じられて、テレビのトップニュースから、街の売店では各新聞、週刊誌ともに1面で取り上げられています。その時、僕がいたのがROCINHA(ホッシーニャ)。RIOで一番大きなスラム街の中。カーニバルの準備で追われている制作現場で作業していました。このチームは数年前から出場を計画していて、その集大成が今年。初めてRIOのカーニバルに参戦することになったのが、今年のこのカーニバルです。

 

 多少、大げさに語られている部分もありますが、ブラジル人にとってカーニバルはサッカー同様、特別なものです。よく年を聞くと、私(息子)が産まれたのは「(アメリカのワールドカップ)でブラジルが優勝した年」とか「(サンバチームの)マンゲイラが優勝した次の年」なんて言い方をします。なかには踊ったり騒いだりということがあまり好きでない人たちもいて、この長いカーニバル休暇に旅行します。海外へ行く人たちは、アメリカのディズニーランドやハワイ、または国外にいる親族を訪ねに。国内旅行をする人たちは、親族や友人に会いに帰省。結局、国内組の人達は、行った先でもお祭りなので、歌って踊っての休暇となります。

 

 作業所はバハコンと呼ばれ、手の空いている住人たちが集まり、本番で使われる衣装や山車の制作作業をします。多くは女性や老人たちで、サンバチームの幹部や役員がそれぞれのセクションで指示を出します。一流のチームならともかくも、駆け出しのデビュー戦であるホッシーニャでは、そのほとんどが手作業です。

 

「せっかく日本から来たんだ、お前も(カーニバルに)出ろ!」

「いいのか?」

「ああ、でも、ただじゃないぞ」

 

 なぜ、僕が作業を手伝っているかというと、理由は「カーニバルには出たくても(お金がなくて)出られない人がいる」ということを知ったからです。そして、多くのバハコン(作業場)で働いている人の中にも、本当は出たい人たちがいる。自分は出れないが衣装づくりを手伝っている。ぽっと出の外国人が、金払って騒いでって「じゃあね」ということはしたくなかった。

 

 ホッシーニャ全体が、初出場のカーニバルで「いっちょ、やってやろうじゃないか、優勝だ!」という空気に包まれていた。世界に有名なリオのカーニバルは、十数組のいわゆるトップチームで、サッカー選手や女優、政治家などの有名人も参加し、もちろん各社テレビ中継が入り、サンボードロモというそれ専用の、収容人数9万人ともいわれている会場でパレードする。そのトップチームの下に2~5軍までのカテゴリーがあり、上下のクラスで、それぞれの採点結果により入れ替えとなる。われらホッシーニャは最下部の5軍からのスタート。パレード会場は郊外の広場。サンボードロモでパレードできるのはトップチームと2軍のみ。

 

 年明け2月頃に行われるカーニバル。その前年の6月に本番で歌われるテーマ曲が発表になり、町中のレコード屋の店頭に並ぶ。やがて11月頃になると、毎週末、どこのチームも公開練習に熱が入ってくる。会場に入るには基本入場料がかかり、中では飲み物や軽食などが有料で売られている。この練習の一番の目的は、チームのみんなに歌の歌詞を覚えてもらうことだ。年が明けるとさらに練習はエスカレートしていき、この熱気のピークの標準を2月の本番にもっていく。

 

 陽が昇り、丘に海からの風が吹き出すと、作業場から人が減っていく。家々からは昼食の準備の音が聞こえだす。「シューシューッ」と圧力釜で豆を煮る音。フライパンの油でニンニクを炒める音、香り。お母さんはサンバをうたいながら。もう歌詞も全部覚えて、踊りも完璧だ。隣の家から、やがて周りの家も歌いだす。スーパーのレジのお姉さんも、バスの運転手も、海岸のジュース売りのお兄さんも、そして、街はカーニバルに入る。この期間、サッカーのゲームも休みだ。リオデジャネイロが沸騰する。