かぼちゃ、わたくし流

突然、家にかぼちゃが10個きたら!

 

今年は、天候の関係もあり、作物は全般的に不作。それでも、収穫期の今は、日々、新鮮な有機野菜が届きます。その中のひとつが、かぼちゃ。おき場所もないくらいに届いたかぼちゃに、東京にいながらも、山里の季節を感じます。

 

青梅街道沿いの大きな鳥居。いつか入ってみたかった神社。正しいしきたりを心配すると、手と足が変な動き方になり、まともに歩けそうにないので、お辞儀をして入り、ただ歩いて、出て、お辞儀をした。建物も大きく、よく手入れされている境内には、七五三のお参りをしている家族たちが多い。「今、どうするべきか?」を考えるには、格好の場所だ。あちこちの夏祭りが終わり、スーパーには栗や松茸。こんどはJAZZの週末。

 

先日、届いたかぼちゃ。毎年の事ながら、これがなくなると、いよいよ軽井沢も本格的に灯油の季節。久しぶりに出来た「包丁ダコ」を触りながら、街の人たちの顔が目に浮かびます。雪、というより、氷に備えて、緊張しながらも「ふにゃふにゃ」と季節は流れていく。街は落ち葉で埋もれ、夜が大きくなり、そして、雪虫が飛び出せば、浅間が白くなる。浅間が三回白くなれば、里にも雪。この時季の軽井沢の空気は、何物にとも代えがたい澄んだ力に満ち溢れている。しっかりと「冬支度」をしておきなさい!と、浅間山が言っている。

 

約30年ぶりに東京で暮らしている僕は、戸惑っている。わが故郷ながら、腰のすわりが悪い。街が凍ってしまう前に、また、軽井沢へ行こう!

 

日曜日の朝は、買い物。駅前では、ちょうど時間が重なって、たくさんの家族でにぎわっている。子供たちはみな、変な帽子をかぶり、オレンジ色の格好。どこかでパーティーがあったようだ。昨日は七五三のカッコウだったのに…。流行というものは常にあっていいものだけど、見境もなく、やたらと飛びつくのは日本人の性なのだろう。赤信号、みんなでわたれば…。

 

僕は、この時期が近くなると、以前、アメリカで起きた銃事件を思い出す。残された家族や、周りの友人たちは、毎年、家々、店々、街中に飾られているカボチャを見て…、

 

僕は、しない。出来ない。たった一人でも、それで悲しむ人がいるなら、断固として、そんなくだらない祭りなど必要ない。人々は、何も考えずに自宅を飾り、子供たちにオレンジ色の服を着せ、すぐゴミになってしまうものに囲まれて、さしたる信仰もなく、日を送っている。本物のかぼちゃを食べればいい。たくさん買い込んでも、保存が利くし、冬至に食べれば風邪を引かないと。

 

圧力鍋で手際よく、どんどん煮る。冷めたら小分けにしてフリーザーへ。かぼちゃは「ポタージュ」「パウンドケーキ」「コロッケ」「ムース」「天ぷら」&「そのまま」と、これから冬至までの食卓を楽しませてくれます。普段はコーヒーの僕も、紅茶で秋を吸収します。手間もかからず、保存が利いて、調理も楽だし、身体にもいい。この時季のかぼちゃは、胃袋で楽しむもので、イミテーションで喜んではいけませんね。

 

栗は中国産、

マツタケはメキシコ産、

かぼちゃはプラスチック、

 

 

 

僕は、ハロウィーン、嫌いです。