牛と臼と、休日の高尾山。
休日の朝も早起き。車で逆・都会方面へと向かいます。目的地は「高尾山」小学校の遠足以来です。しかし、思うようにはいかず、環七に入ってすぐに車は詰まり気味。なんと甲州街道の遠かったことか。
前回、甲州街道を通ったのは、昨年の春。一面雪景色の軽井沢から、韮崎の知人に会いに行った帰りです。季節外れの、みぞれ混じりの雪に大垂水峠では多少難儀しましたが、夕方前に東京へ着きました。知人宅でごちそうになった、山椒のよく聞いたプロ級の手づくり麻婆豆腐。炊き立てのご飯と出してくれたところなどは、さすがはアーチスト、相手の心を見事に読んでいます。
その、甲州街道をどんどん西へと進みます。前回通った反対側の道の景色を思い出しながら走りましたが、なかなか記憶が起き上がってきません。頼みのGoogle mapも「あっちむいて、ほい!」味の素スタジアムまではそれでも順調にいきました。
もとより、勘働きも当たりはずれが多く、ほぼ外れ七割、土地勘もないぼくですから、東京の高尾山に向かっているときに「相模湖」なんてのが出てくると、あれれ?「なんでこんなところまで…」と、なってしまう有様です。
何度か間違えながらも、高尾山につきます。最後は、目標にしていた駐車場を通り過ぎてしまい、戻ってくるのに一苦労、というおまけ付きで。
さて、高尾山。何しろ小学校以来なので、何も覚えていません。それらしい商店街が並ぶ、参道入り口のメインストリートを上がり、ロープウェーの出発駅。周りの人達は、私服の人も含め、やや、軽装で歩いています。
わかりやすいようで、今一つよくわからない地図を見て、とりあえず、登りだします。かなり急な坂道を2㎞ほど上がると、先ほどのロープウェーの到着駅。そこから、道は平たんになり、多少のアップダウンはありますが、そのまま頂上です。ちょうど、ロープウェーの駅が全行程の半分くらいのところに位置します。
ばるほど、麓からロープウェーを使うと、頂上まではほとんど上り下りなしで行けるようです。料金は片道¥490、車内アナウンスでは「日本一急こう配のロープウェー」「ただいまもう一台のロープウェーとすれ違います」などと案内してくれます。ここでも、英語アナウンス付き。外国人の皆さんも多数来ていました。
高尾山の標高は599m、軽井沢が約1000mなので「この倍程度だったら碓氷峠も行けるんじゃないかな?」などとぬるい気持ちで、山頂から富士山を眺めます。天気にも恵まれ、都内市街地よりもワンサイズ大きな富士山。くっきりと浮かびあがる。
ここまでの道のりで、記憶にあったものはすでになにもありませんでした。山頂に立ち、思ったことは、たしかに、ぼくが小さい頃は、練馬からも「大きく見える富士山があった」ということです。この距離で富士山を見たのも何十年ぶりなので、いささかあやふやな記憶ですが、この大きさの富士山「見たことある」。
どこかで、脳が勘違いして、ぼくに無責任ないたずらをしているのか、それにしても、この富士山を、練馬からではないとしたら、ぼくはどこで見たんだろう?
去年まで通勤していた中央線は、阿佐ヶ谷駅の近くになると、天気のいい朝は、きれいな富士山が見えます。しかし、ここからの富士山は都会から見える一般的なサイズ。それでも、退屈だった通勤電車の中、ここから富士山が見えるとわかってからは、晴れに日の通勤に楽しみができました。
富士山を見て「うっし!」となる気持ちは、不思議なものです。軽井沢に住んでいたころに、毎日のように浅間山を見て暮らしていましたが、こちら浅間山は「うっす!」です。毎日見ている、いない、の差なのか、距離からなのか。
6時半に出発して、練馬15時着。帰りは行きより渋滞は少なく、寒かった高尾山から暖かい車内で、家人たちはひと眠り。もう年なのか?「日帰りプチ旅行は、明るいうち着に限る」が、このところの定番です。
・お坊さんが受付する、国道沿い駐車場のレシート(の、ようなもの)
お願い
山内整備費として御協賛ください。
一金五百円以上
高尾山奉讃事務局
・昼ころに「ご予約なしでも、お食事できる「精進料理」5品セットで¥1900です」
というアナウンスが流れます。
PS:タバコ、吸うところ見つかりませんでした。
とーや、コツコツと、歩いています。
日曜日の夜、目白通りを上る。西武線を過ぎ早稲田通りを越え、やがて新宿の明るい看板街。この辺に来ると、人々のファッションも変わり、車を磨いておいてよかったと感じます。
ルイヴィトン、H&M、コメヒョウ移転をいささか気にしながら、渋谷区に。
小学校の角を曲がると、一気にハイクラスな街。この通りの秋は、まるで絵葉書のように美しい。そして、その先の国立競技場を、生まれ故郷の反対側から望む。
帰り道も同じ。高島屋のルイヴィトンには、新宿と同じ彼が浜辺に立っている。さすが!と、思わせるブルーのバッグが素敵だ。タレントの看板は無視して、伊勢丹を横目にFOREVER21の後釜がまだ入っていないことを確認する。警察署の坂を下り、ふたたび目白通り。
ほぼ、全カテゴリーの人達と出会え、東京のすべてが凝縮されたこのルートをここ3年ばかり、時代遅れの2000㏄ワーゲンでよく走っています。
これからの3年間、というと見当がつきません。なにせ、明日のことも、さしてわかっていませんから…。
まずは、「今」を見てみます。
***
魚をさばくときのコツは「骨を感じる」。感じて、意識して、切る。余分な力は一切使わず、必要最小限の力で、切る。
包丁を使うコツは、押すのではなく、材料の目標ラインをよく感じて「滑らせる」感覚。目に見えている背ではなく、刃の部分に意識を集中させて、切る。
千切りをするコツは、包丁を下す時ではなく「上げる時」に意識をおく。
包丁をうまく研ぐコツは、下に押し付ける力ではなく、砥石の上をすべるような「横にスライドさせる感覚」で研ぐ。
自分が(料理人になった!)と勘違いするコツは「料理をしながら洗い物にも手を付ける」。出来上がった時に、シンクもきれいな状態にする。
自分が自然界の一員だ!と、勘違いするコツは、捨てる食材を見て、これ、食べれるんじゃないか?と思うのではなく「考える」。なるべくスマホには頼らないで。
洗い物のコツは、ゴールの時間を考えずに、焦らず、じっくりと洗う。ストレスにならない程度で「できるだけゆっくり」と、着実に丁寧な仕事をする。
塩と砂糖をうまく使うコツは、量ではなく「自分がおいしいと思うピンポイント」まで出し惜しみなく使う。
料理上手になった!と、勘違いするコツは「キッチンと爪をきれいに日々手入れする」。
いい暮らしをしている!と、勘違いするコツは、使い込んだ鍋を「ピカピカに磨く」。
ギターを弾くコツは「必要最小限の力で」弾く。しっかりと音を確認して、初めはゆっくりと。そして、温かく乾いた手で。
パソコンのキーボードを打つ時のコツは、力を入れずに「必要最小限のタッチ」で打つ。
私は仕事ができる!と、勘違いするコツは「机の上をきれいにする」。
体調をキープするコツは「食べ過ぎない」で、「毎日、同じリズムを繰り返す」。
外出を楽しむコツは、使い慣れた「靴をきれいにする」。
速い球を投げるコツは、ボールをリリースする瞬間以外はできるだけ「力を抜いて」。
コントロールをよくするコツは、体全体を使い「下半身に重点を置く」。
自転車を楽に走らせるコツは、足でペダルを回すのではなく「下におろす感覚」でこぐ。
自転車で両手離しをするコツは、スピードではなく「トルクを意識する」。
タバコをうまく吸うコツは、一本を吸いきるところにゴールを置かず「肺が喜んでいるうちに消す」惰性で最後まで吸わない。
自称(読書家)をうたうコツは「本を大切に扱う」。
車の運転のコツは「ムカつかない」
車のコツは「好き」を楽しむ。
無駄遣いをなくすコツは「使うときは迷わず使う」。
今日はいい一日だった!と、勘違いするコツは「玄関の靴をきれいに並べる」。
なんだか、わけわからなくなっちゃったときに、うまく乗り切るコツは「ゆっくりと風呂に入る」。できれば、残り湯で洗濯をする(がんこ汚れモードで)。
<総括>
力を抜いて、
ゆっくりと、
必要最小限の力で、
食べ過ぎずに、
自分にぴったりの分量を使い、
身のまわりをかたづけ、
セーブしないで、
きれいに暮らす。
もし、その時間が取れなければ
「仕事(会社)を辞める」。
その瞬間、
新しい本か、CDを手に持っていれば、
なを、よろし。
急がば回れ。
(逆上がりができない君へ)
4年前、東京で暮らし始めたとき「これ、まだ残っているから使いな」と、親族からSUICAをもらいました。実をいうと、これまで数十年の長野&ブラジル暮らしで、ほとんど電車やバスに乗ったことがありません。東京に出てくるときも、ほぼ毎回、車。当然、SUICA、使ったことがありません。まさに「今浦島」です。
スーッと出入りできるけれど、残高がわからないし「運賃足りなくなったらどうなる?」たまに、改札で引っかかている人いるけど、50過ぎのおやじがこんなこと心配しながら電車に乗っている、なんてマヌケな話。
SUICAやPASMOに、違和感があり、なつけませんでした。どうも、ぼくには現金主義みたいなものがへばりついていて、見た目以上に時代にマッチしていません。しかし、改札を出る前に清算できることを知ってから。使ってみるとなかなか便利で、当たり前ですが、みんなが使っている理由がわかりました。
ちょっと、大げさに言うと、これも訓練のためです。人に聞いたり、駅員に聞いたりすればすぐにわかることなのに、それをしないのは、見て、判断して、勘を働かせて、自分ひとりの中で解決する訓練、誰にも相談しないで。
何のための訓練か?というと、海外で、こういう感覚は特に役に立ちます。はじめての場所にいるとき。電車や地下鉄、役場、大きなビル…。心臓はバクバクし、失敗するリスクは大きいものの、それに備えて行動すること、あわてずに肝を据えて。スイスイと行ける近道はたくさんありますが、何しろ僕は、遅い。何をやっても、最速で人の3倍かかります。
通勤電車、ランチタイムの食堂、新入社員研修、地域・地区活動、授業参観、そのあとのPTA会議、運動会の準備に、国際交流フェスティバル…。ほとんど、周りに溶け込めずに、孤立します。
「逆上がり」できませんでした。一クラス50人以上が6クラス。この学年の中に、ぼくを含め、世の中公認のデブは3人。低学年の頃は、「逆上がりできない組」が半数以上はいたと思います。それが、年を追うごとに減っていって、最終的に、6年生になるころには、この3人を含めた数名が、まだに残留組に在籍していました。
この残留組は当然ながら、かけっこも遅く、ぼくも、ビリじゃなかった記憶がありません。やがて、最終的にはぼくともう一人が、できないまま卒業。もう一人の彼は「タンク」と呼ばれていて、電車というよりは鉄道に詳しく、彼は、今でいう「鉄ちゃん」のはしり。卒業してすぐに彼の引っ越した家の近く、江東区で一度会いましたが、以来、もう何十年も会っていません。その後の彼はできるようになったのだろうか?何年かに一度、突然そのことを思い出します。
ぼくは相変わらず、中学3年間でも、できませんでした。ここまで、できないやつもそうはいないかと。運命が変わったのは高校に入っていから。野球の練習があまりにも厳しく、どんどん、痩せていきました。スポンジから水が絞られるように。というよりは、見た目はそれほどデブではなくなりました。球が早かったので、部員の少ない弱小野球部では、引き算の定義でピッチャーです。
しかし、野手との違いで、走り込みの多さや、練習量の多さは地獄です。生涯ビリのぼくが、毎日人の何倍も走るのですから、「カメに腹筋させる(爆風スランプ)」ようなものです。今まで、体形からずっとキャッチャーをやっていましたが、ピッチャー転向初日に、部活やめようと思いました。当時はそれなりの理由があり、ピッチャーは筋トレ、鉄棒禁止。ほかの野手たちは「補強」と称して、練習の最後につらい筋力トレーニングをします。唯一、ピッチャーのほうが楽なメニューです。
できないのは、恥じゃない。
やらないのは、恥だ。
きつい練習や、軽くなった体に慣れてきた2年生のころ、一人朝練で校庭を走っていました。バックネットから校門前、そして高鉄棒の裏をぐるぐる回って。ある日、小学校以来、中学3年間と高校1年間、約4年間の封印を切って、高鉄棒の前に立ちます。この4年間、一度もチャレンジしていません。というより、鉄棒に触ったことすらありません。誰もいないのを確認後、
「あれっ?」
なかなかにブザマな格好ですが、すんなりとできました、逆上がり(後日談ですが、このころのぼくの逆上がりは「棒にひっかかったヒキガエルみたい」だったと)。以来、監督やほかの部員の目を盗んで、毎朝、ひとりで、くるくる回っていました。回ってはニタニタ、回ってはニタニタ…。やがて、早く登校する1年生や部員数人にはバレましたが、それでも、回ってはニタニタ。
高鉄棒で逆上がりができる、ということは、世界中、どこへ行っても、棒さえあれば「できる!」ということです!。
人知れず、ぼくの逆上がりを見ていた人がいます。女子バレーボール部の新入生~ここからの話は、聞いて楽しい人は誰もいないと思いますので割愛~しかし、結論から言いますと、逆上がりのおかげで、彼女ができました!という話。ぼくが、小学校や中学校の時に、普通に、人並みに逆上がりができていたなら、こうはならなかったでしょう。
朝練で、校庭を走っているとき「いつかやってやろう!」と思いながら、高鉄棒の横を走りすぎていました。その点において、人の何倍も能力が足りなかったぼくが、です。少し人より時間がかかっただけ。残念な夏の大会1回戦負けの高校で、それでも、素晴らしい時を送れたのは、足りなかった能力のおかげ。
プログラミングに挑戦しています。御多分にもれず、いつもどうり呑み込みが遅いです。とても、遅いです。いくらやっても、前に進めません。脂ぎったオデコが、PC画面に映り、マウスはくるくると回るばかり。
なんであれ、一生懸命にやっているやつを、笑うんじゃない(アントニオ猪木)
おつむが少し軽くなってきたら、高鉄棒がどこにあるか、気づくのではないかと思います。
とーや、猫好きになる!
昭和のころ、泥だんご作りに熱中していた子供たちは多いと思います。いかに硬く作るか、いかに黒光りさせるか、究極の円球体を目指して、何日もかけて作り、最後はぶつけ合って、どっちが硬いかで終わる。
当時は、今とはだいぶスケールが違いますが、ちょっとしたペットブーム。ペットショップなどほとんどなく、街に1件あるかないかという時代。あっても、犬猫というよりは、カブトムシや、ザリガニ、小さな熱帯魚や、小鳥の類です。手軽に飼える小鳥。
どんな土がいいのか、水の配合はどのくらいがいいのか、まだまだ、未完成の頭と体を使って、校庭や、街を彷徨います。そんな中、裏庭の沈丁花の花の下で、奇跡の土を見つけました。周りの土と違いそこだけが柔らかく、優しい感覚。
毎日話しかけて“ホ~・ホケキョウ”と鳴くようになったオカメインコ、きれいなのでオスかと思っていたら、卵を産んだコザクラインコ、そして数羽のこれは定番セキセイインコ。後に、オーストラリアへ引っ越していったクラスメイトからの手紙で「こっちでは日本でいうスズメがセキセイインコ、街中に飛んでいて、しかもカラスは白黒」と、知らされてうらやましく思いました。
奇跡の土からは、気絶するくらい臭い、手にねっとりと着く、お土産。倒された空の鳥かごに、明けっぱなしだった台所の窓からは、たくさんの羽とわずかな血痕。
以来、ぼくは「猫嫌い」になりました。
海外では、生き物の立ち位置も若干こちらと違っていて、たとえばフクロウは、森の番人、何か知識者のように思われていますが、ある所では、やつが自分の真上を飛んでいくと死ぬ、とか、ヘビは縁起のいい生き物ではなく、悪魔の手先、とか。
同じように、日本ではちやほやされている犬も、向こうでは,どちらかというと猫よりは嫌われていて、いい表現に使われません。ブラジルの郊外に住んでみて分かったことですが、人間の顔色をうかがいながら、何か恵んでくれないかと、うろうろしている、地区に野良犬の多いところではなおさら。発情期にはうるさいし、いたるところにお土産を置いていくしで、基本、好まれていません。
まだ、祖母が生きていたころ、彼女はよく猫と話していました。ぼくの父親やその兄弟の子供たちが仕事に出た後、祖父にお茶を入れたり、掃除をしたり。そして1日の仕事がひと段落すると、夕食の準備。スーパーはその後何年も経ってからのものなので、当時はもっぱら近所の魚屋さん、お肉屋さんや八百屋さんが町民の台所です。
祖母は、昼の日差しがだんだん弱くなっていくころ、いつも庭に出て髪をとかし始めます。縁側に出てきた彼女を見ると、垣根の間や隣の家の屋根の上に、猫たちがどこからともなく集まってくる。お目当ては、彼女の手にあるもの。夕食の準備で出た、魚の頭。
彼女は、まず、魚の頭を持ってきて、いつもの場所に置きます。そして、一度家の中に入り手を洗って、櫛を持ってまた縁側に出てくるわけですが、その間に、魚に手を出す猫はいません。彼女が、髪を解きだすと、そろそろと寄ってきます。
「おや、きょうはミケはいないのかい?」などど、彼女と猫たちの会話が始まります。その場で食べだす猫もいれば、どこか得立ち去る猫も。彼女と猫との間には、完全に侍従関係が成立していて、彼女に逆らう猫はいません。
彼女は、しっかりと他の生き物たちとの接し方を知っていて、べたべたと近づくこともなく、必要以上のものを与えるわけでもなく、人生という時間をかけて、早死にの猫たちからも信頼されていた。その、行動のみで関係を築き、かつ、心では深くつながっていた。
一般的に、犬と違い、猫を調教するのは難しいことですが、ここは調教というよりも掟みたいなもので、祖母に対する接し方は、おそらくは猫一家の親子関係の中でも、世代にわたり受け継がれているのではないか?と。彼女の一日のルーティンは、この近所の猫たちのルーティンでもあったわけです。
すし屋や、魚屋の裏には、必ず猫たちの社会があって、野良猫たちは人間の社会とうまく共存していました。じゃんじゃん売りまくられて、結果、年間何万頭もの殺処分が行われていた狂った世の中とは違い、環境が許す最良の個体数でみな暮らしていたわけです。
最近では、犬好き、猫好きが市民権を得てしまって、ペットOKのテラス席は犬だらけ、マスコットと称して、にゃーにゃー言っているレストランからは猫の匂い。昔、すし屋は裏に必ず猫の家族を扶養していましたが、店内が猫くさい店などありませんでした。個人の所有物としての存在ではなく、社会としての人間と動物の間には、もっと確かな接点があった。
何十年も「猫嫌い」をやってきましたが、約3年間のブラジル移住で変わりました。どこか香ってくる昭和、頼りになる優しい隣人、泥まみれの子供たち、ある意味厳しい社会と、決められたルール、規則正しい生活、そして、正しい生と死の接し方。どれも、さっきまでは日本にもあったことと同じです。
何もかも日本よりは不便なブラジルの田舎町。しかし、そこはまだ、正しい強い社会が息づいています。ベランダに出てコーヒーを飲んでいる時のとなりの屋根、夜に裏庭の塀の上からこっちを見る光る目、ネズミを追いかけているのか近くで聞こえる素早い足音…。
三味線にされてざまあみろ!なんて気持ちは、もうありません。
野生は、迷わない!
フグとカレーと…、
Youtubeに動画があります。アップしたのは10年以上前ですが、再生回数は、なんと100回程度。おそらく、世界で最も再生されていない動画です。しかも、その100回程度の再生回数のほとんどは、ぼくです。つまり「誰も見ていない動画」です。
「とにかく、うちにやつのカレーはまずい」という知人がいます。奥さん本人も「私が作るカレーまずいんです」いくらやっても、まずカレーしか作れないと。逆に、ことあるごとに、奥さんの手料理を自慢する人や、「あの店のあれはうまい」という人の話は、ちゃんと聞いているのは最初の一回だけで、だんだんと「また、はじまった」という類の話になっていきます。
うまいうまい、といわれると、聞かされている方は冷めてきてしまいますが、まずいカレーの奥さんが作るカレー、本当にそんなにまずいのか?一体、どうやったらカレーをまずく作れるんだろう?だんだん、一度食べてみたくなります。
母ちゃんが買い物に行くときの「いいかい、タンスの中のものは絶対にいじっちゃダメだからね!」この心境です。
例えば、フグの毒。有史以来、何人もの人たちが犠牲になっていることと思いますが、ここへ来るまでの、過程はそれほど悲しいものではない気がします。
若旦那衆が今夜も一杯やっています。
「だんな、こんやはこれ、もってきやしたぜ!」
「おお、ふぐじゃないか!」
「そういやぁ、先日、横町の彦さんは、これ食った後に逝っちまったんでさあ」
「なあに、かまうことはねぇ、やろうぜ」
「彦さんは、三口目くらいのときに(こりゃ、たまんねぇ~)って言ってやした」
「なんなら、その四口目ってのを、今夜やってみようじゃないか」
「おいおい平さん、もう五口目ですぜい。大丈夫ですか?」
「んん、何ともない」
「それじゃ、あたしも一口いただいてみますよ」
「あら、ほんとだ。これはうまい!」
「おっ、松さん。なんだかきたぜ。これが、彦さんの言っていた(たまんねぇ~)か い」
「すげぇや、彦さんは三口目でお釈迦、平さんは六口目まで大丈夫だ」
そして、翌日。バツイチならぬボツイチとなった平さんの女房、お福がささやく。
「お前さん、なんでまたフグなんて食っちまったのさ。まったく!」
そんな具合で、あちこちの街々で「二口目からがようござんすよ」なんて会話が繰り返されて、今日に至る。ちょこっとつまんで、「んん、たまんねぇ~」となって、そこで切り上げる。死にたくはないが、未知の味は経験したい。頃合いを見計らって、危険な香りを楽しむ。この、行ったり来たりの文化の積み重ね。人間という生き物のすばらしさ。
暴れ馬にけられたり、飛んできた桶が頭にぶつかったり、ひょんなことから人は死んでしまう。普通の日常の中に「死」というものはすぐそば、すぐ隣にいて、素知らぬ顔でぴたりと張り付いている。ある時はどこにいるのかわからないくらいに遠のき、ある時は触れるくらい近くに。気配もなくピタッと張り付いてくる。
そこが危険なんじゃない
そこにいることを選んだことが危険なんだ。
メダボ、減塩、インフルエンザ、事故、火災、がん…、恐怖や危険をあおって、世の中を心配の沼に陥れてからの、おいしい商売がはびこっています。本当に危険なんでしょうか?長寿の小太り、島流し後の塩抜き、ワクチンの中身、高額な車、住宅ローン、年に一度の健康診断、その後の再検査、抗がん剤…。
ふぐを目の前にしては直接勝負、1対1の対決。ところが、現代の人々は、真実かも定かではない「見えない恐怖」におびえ、生きる。そこに自分の意思はなく、人のささやきから、見聞きしたことから、下してしまった判断。みんなと一緒だからと、とりあえずは安心し、いつまでも変わらない赤信号を渡っている。
命にかかわるような問題は、あちらこちらにあり、その中に包まれて共存していくしか方法はない。その身近にある危険を察知するべく能力のある、ない、が、生きてく上では問われる。少なくとも、フグを食べていた旦那衆は、そこにいるとこを自分で決めていて、他人の意見には流されずに生きていた。
松に誘われるまで、一緒だった愛しいお福、
目の前の、ふぐ。
良く晴れた日の、江戸から見える富士山、
目の前の、ふぐ。
昼に入ったうどん屋のかわいい娘、
ふぐ。
「なぁ、松…、あれれ、彦さんじゃねぇか、なんでお前さんがここに…?」
ふぐ。
彦さん、平さん、あっしの「ゆーちゅーぶ」、ちょいと見てみないかい?
本。
なかなか、いい本に出会えません。ネットですすめられるままに、いくつか買いましたが…。そもそも、このところのぼくは、本を読をむ習慣がありません。ここ、何十年も、じっくりと本を読んだことも。かつて、活字中毒になっていた時期もあるんですが。
今から、約30年前。池袋で働いていたころ、よく仕事帰りに本屋によりました。池袋には、いい本屋が多く、遠回りまでして、わざわざ新宿まで行くこともありません。やることがない通勤時に、電車の中で読む文庫本には、ずいぶん助けられました。
ぼくは、ウォークマン持っていなくて、少年ジャンプを毎週買う人種でもありませんでした。そして、出会いました。「鬼平犯科帳」池波ワールドに見事にハマりました。テレビシリーズも放映されていて、これがまた見事な作品。エンディングで流れていた、ジプシーキングス「インスピレーション」。
この曲が、人生のターニングポイントになりました。曲と一緒に流れるバックの映像も最高で「これは、今までの時代劇とは違う!」鬼平のクオリテーに心底、酔いました。
中村吉右衛門の鬼平。記憶が正しければ、柄本明の小野十蔵、丹波哲郎の蓑火の喜之助、国村隼の雨引きの文五郎、そして江戸や猫八の相模無宿の彦十、蟹江敬三は小房の粂八、長谷川久栄の多岐川裕美、尾美としのりは、うさ忠、木村忠吾、…。
文庫本を買って、電車の中、夜寝る前、ブラジルではリオの海岸で、何しろハマりました。いい本の条件は、なんといっても「時間を忘れてしまう」ということです。どんどん本の中の世界に入って行ってしまって、普段の言葉遣いにも「やや?」とか「しかし、某…」「そこもとは…」「手向かうものはかまわん、切り捨てぃ!」なんて、ほとんど、もう病気の世界です。
江戸の町、自然、風情、食べ物、暮らし…、
開高健の本は、読めば読むほどに奥が深くわかってきて、物を例える表現の世界に酔いしれました。戦争を知らないぼくたちにも、当時の臨場感や、心の葛藤が、手に取るように伝わってきます。椎名誠はとにかくおもしろくて、世界中のいろんな所へ行って、体当たりで進んでいく様は、いつも幸せな気分にさせてくれます。C・W・二コルは、自然や生き物の知識に長けていて、ある意味、最高の教科書です。
人生の節々に出てくる鬼平の言葉。大した人生を送っているわけではありませんが、「こんな時、長谷川平蔵だったらどうするんだろう?」「これをやったら、おまさだったら、どんな気持ちになるのだろう?」「こんな時、大滝の五郎蔵だったらどっちへいくのだろう?」
物語はどんどん進み、誰しもが同じ思いを感じていた。秋山小平の「剣客商売」。藤枝梅安の「仕掛人・藤枝梅安」。そして、長谷川平蔵の「鬼平犯科帳」。この3つの物語が、だんだんと近づいてきた。一体、世の中はどこへ向かっているんだろう?このときの高揚感は、いままで活字から感じ取ったものの中で、最高の力だった。
二次元、三次元を超えた、四次元以上の妄想が、頭の中を走りだして止まらない。いったい、この3人を相手にする悪党とは、どんな奴なんだろう。でも、この役は並大抵の人物では務まらない。それほどの悪を、どう作り出すのか?
そして、ここで筆が止まってしまう。鬼平犯科帳の最後のページ、最後の文字「絶筆」。うなだれてしまった。もう少し時間がかかると思うけど、ここはぜひ、お会いしたら、うかがってみたい。だれにも言わないから。
やっぱり、ネットでリサーチして、ポチっとやるよりも、本屋へ行き、売り場の中で、表紙を見て、手にとって、そこで、買ってみた方がいいのではないのか?そして、読みたくなるような本に出会うのかと思います。
レコードを買うときもそうでした。ジャケ(ジャケット)買い。中にどんな音楽が入っているのか全く分からないままに、見た目から伝わってくるものだけで買う。これ、出会いの宝庫でした。人それぞれに、様々な感性があり、伝わり方も違う。レコードや本と「目が合った」瞬間を、待っているのかもしれません。
どこへ行くにも、文庫本を必ず持って歩いていました。国内、海外を問わず。また、あの頃のように、本屋さんで過ごす時間が、増えそうです。そう、考えただけで、なんだか楽しくなってきます。
今となっては、一緒に老眼鏡も持ち歩かなければなりませんが。
いきものたちと、わたくし。
初めての人と会うとき、相手がわからないので、知りえていることで想像します。実際に会ってみると、まるで違っていたこと、よくあります。同じように、初めての場所、初めての仕事、知らないもの…。
場所や物はともかく、人は厄介です。できるだけ心穏やかに対応し、場合によっては距離を置きます(右クリック・削除)。パソコンの作業と同じようにサラッと。逆に、思っていた以上に、会ってみてよかった人も。
PCと違い、人は現物がまだそこに残っているので、良くも悪くも、すぐには問題解決になりません。いい人、また、会いたいと思う人ならば、これは問題なし。しかし、どうしてもNGな人、そして、これからも会わなければならない。そんなときは、虫。
「無視」ではなく、「虫」。
どういうことかというと、人のことを、虫だと思って接する。あまり大げさに嫌わない程度に、虫としてとらえる。ぶんぶんとうるさいな、と思っているものの、虫ならば、わざわざ声に出して反論することもしないし、眉間にしわを寄せることもない。
てんとう虫は見た目もいいし、害虫を捕食してくれるので、だいぶフレンドリー。蝶はきれいですが、よく見ると、ややグロテスク。ハエや蚊、ゴキブリなどは、居合わせたとき、もし、ハエたたきでも近くにあろうものなら…!
カブトムシクラスになると、これはもうヒーローで、むしろ近くにいればうれしくなっちゃう。トンボは、飛んでいる姿は素晴らしいものの、なかなか近くには来ない。ブラジルの郊外で、仏壇のように黒く輝く「ダイコクコガネ」に会ったことがあります。あの日の感動は今も忘れません。
人と虫をかぶせることを、何十年もしていると、相手のクオリティーによって、虫の種類もだいぶ使い分けができるようになってきます。だんだんとキャラクターが出来上がっていき、ほとんど間違いはありません。虫の中でも、近くにいてもそれほど嫌でないもの、むしろ好きなものいます。
そうしていくうちに、虫と人が逆になってしまい、なんとなく「この人、苦手だなぁ」と、感じる人を見るとき、すでにもう、話す前から虫になっている。特にはじめて会うときは。ぼくの場合、この虫ジャッジは100%正解、まず、間違いはありません。そもそも、基本的に、初めての人は虫ならば?と見てしまうので、当然ですが。
やがて、二言三言、話していくうちに、人間の中身も見えてきて、そんな人はすぐに人になるわけです。しかし、脳はイイカゲンで、カブトムシやクワガタ、大ナナフシのように、好きな昆虫も多く、いい人なのに虫カテゴリーのケースも。こうなれば、鳥や動物、魚の出番です。ゾウやキリン、チンパンジーにゴリラ、タコやフグ、イルカにシャチ、スズメにオオハシ、カラスにダチョウ…。
そうなってくると、日々の暮らしの中は、まわりは生き物でいっぱいです。もう、そこに人間の姿はありません。擬人化、ではなく「擬いきもの化」ですね。とにかく強くて優しい奴は、ゴリラ。チョロチョロと動いて小食の人は、ネズミ。やたらめったら人にかみつくやつは、ワニ。凛として、何ともエレガントな女性は、フラミンゴ。そして、彼女の周りに張り付いている女性は、ちょうちょ。
ぼくは、食べるのが早い。というよりも、ほとんどの食事は僕にとって「飲みもの」です。しかし、いつも食べているわけではなく、毎日、20時間くらいは常に飢えています。腹が減っているのです。なにせ、一日一食なものですから。
サバンナのライオンたちも、いつも食事をしているわけではなく、獲物が取れなければ、何日間も食べずに行動しています。なので、ぼくと似たところはあります。
ライオンの食事シーンというのは、むしゃむしゃとおいしそうに食べています。ぼくは、ほぼほぼ、飲み込んでいるので、やはり魚か鳥、ということのなるわけですが、あまり見た目が良くないので、ここはカラスとしておきます。
人を笑うんじゃない
その3倍、お前は笑われている
毎朝、玄関を出て、一服するときに、かなりの確率で、カラスに会います。残飯をあさる「ゴミ捨て場の生き物」のように思われていますが、実際に彼らの行動を見ていると、とても、お洒落です。いつも、木のうろで水を飲み、そのあと、必ず、自分のメンテ。くちばしを磨いたり、毛づくろいをしたりと、かなりの時間を、体の手入れに使っています。
おそらくは、ここぞ、というパーティーの時、彼らはちゃんと着る服を持っているということなのでしょう。世の中から見られているほど、避けるべき生き物ではないのは事実です。雨、雪、風、曇り、晴れ、天気に関係なく、彼らは、いつもお洒落です。何か、周りの条件に関係なく、自分の生き方を持った生き物だけに見られる命の力が、その、小さな体から、あふれ出ています。
野生は、迷わない。
くだらないことに時間を、命を使わない。
明日の天気がどうであろうと、やるべきことは、決まっている。